序章
【なにはさておき量子論 序章】

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二十世紀、物理理論の巨峰といえば、私は、『相対性理論』と『量子論』の二つをあげたい。(と偉そうに言ったが、物理学に多少とも関わりのある者なら誰でもそう言うだろう。)

それほど著名な二つの理論なのだが、実は『相対性理論』までは「古典物理」と呼ばれている。大学で理系へ進んだ人の一部でなければ、きちんと『相対性理論』を学んだ人はいないはずなので、そのような専門的理論がなぜ古典なのか、という疑問をみなさんは当然持つことだろう。
この理由は、「決定論」に基づくか否かという点で区別される。(「決定論」の詳細は本書の中で詳しく述べる。)『相対性理論』は決定論に基づくから古典物理に分類されてしまうのである。

決定論とは、原理的に宇宙の森羅万象は、過去から未来まで全て決定している、という立場のことである。
普通に考えてみよう。この広大な宇宙は、何からできあがっているか。膨大(それこそ文字通り天文学的)原子からできているだろうことに異存はないと思う。それならば、それら原子の全ての位置速度がわかっており、更に原子と原子の相互作用がわかっていれば、遠い過去から遥か未来まで、宇宙で起こったこと、起こるであろうことは全てお見通し、という立場を「決定論」というのである。

ビリヤードの玉突き台とその上の数個の玉の動きなら確かにそうだろうが、全宇宙となれば玉(原子)の数が多すぎて現実には把握出来るわけがない、という意見は健全ではあるが、そこはそれ、「原理的には」わかるはずだ、とするのが方便というものである。

では『量子論』はどうなのか? そう、「決定論」に従わないのである。なぜか、それを納得の行くまで考えてみよう、というのがこの読み物の目的の一つである。

『量子論』は『相対性理論』より知名度は低いが、『相対性理論』よりも皆さんに興味を持っていただける話題であると私は考えている。第一に数式が少ない(安心しましたか)。第二に登場人物が多く、彼らの個性と共に話題に不足がない。

話を戻す。
『相対性理論』も『量子論』も、高校物理の主題になっていない、という事実。
このようなことになっているのには理由がある。
それは次のふたつが原因となっているのである。
人間が『相対性理論』を実感するには、人間は余りにも小さい。
人間が『量子論』を実感するには、人間は余りにも大きい。
最初の相対性理論を考えてみよう。光速度は、約$300000km/$秒、地球から月まで、1秒ちょっとで届いてしまうほど速い。光速度に比べると、通常の人間の営みの中に現れる速度は、あまりにも小さい。だから、相対論効果を身近に感じることがなく、長いことニュートン力学が正しいと思われて来たのだ。
光速度が、$30$万$km/$秒という日常ではあり得ないほど大きな速度であったことに我々は感謝しなければならない。(まだ未読の人は、是非『わかっても相対論』を読んでください)

そしてこれから話をする量子論である。相対性理論の不変定数が光速度($c$)であったように、量子論にも不変定数が登場し、それは、($h$)で表わされ、プランク定数と呼ばれる。
$h=6.62607015×10^{-34} J$秒
これが、プランク定数の値である。ちょっと見ただけで、非常に小さいことが理解できるだろう。単位の話はおいおいして行くが、光速度がとんでもなく大きかったので、我々は相対論効果を現実には感じることがなかったように、プランク定数があまりにも小さい(限りなくゼロに近い)ので、我々は量子論効果を実感することを免れている。

これは、とてもありがたいことなのだ。もしプランク定数が大きかったら、我々が見る世界は、かなりもうろうとした世界になるだろう。空を飛ぶ鳥が、今どこにいるかを見ようとすれば、鳥が向かっている方向や速さがわからなくなり、鳥がどちらの方向にどのくらいの速さで飛んでいるかを確かめようとすれば、鳥の姿は、奇妙にぼやける。

こんなことが起きなくて幸いであるが、プランク定数が小さいということは、極微の世界では、変なことが起きていることになる。そんな話をはじめよう。
(※)『わかっても相対論』を読んでいない人は、これを読む前に、是非読んでください。
ただし、「わかっても相対論」を読んで、あまりの数式の多さにこれ以上、ここに関わるのをやめよう、と思った方がいるかもしれないので、一言。

「なにはさておき量子論」は面白さから言えば「わかってしまう相対論」より遙かに上である。

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